大田絵堂の戦い


今から150年前、元治元年に京で起きた禁門の変に敗れ、朝敵となった長州藩内では
保守派による改革派への弾圧が始まった。
藩内での身の危険を感じた高杉晋作は福岡の野村望東尼の元に身を隠すが
幕府の長州征伐に驚いた保守派が三家老四参謀をはじめ多くの改革派に
血の粛清をしたことに、藩及び国の将来を危惧し
下関に戻り萩の保守派を倒す為決起をしたのである。


  

この決起に同調する様に奇兵隊総督の山縣狂介(有朋)は伊佐に奇兵隊本陣
四郎ヶ原と河原に諸隊を置いて
絵堂に陣を構える萩軍の様子を伺っていた。

元治元年の暮れ、萩からの使者が山縣の元に来て
「奇兵隊は解散し武器は藩に戻すように!」と詰め寄る。
山縣は即答は出来ないので考えさせてほしいと答えた。

明けて元治二年一月六日(慶応元年)返事を聞きにきた使者に山縣は
「仰るとおりにしましょう」と言って
使者に酒をふるまった。

                        
 
しかしこれは山縣の作戦で、使者と絵堂の萩軍を油断させるものであった。

山縣の思惑通り、使者は安心して酒を飲んでいる。
きっと絵堂にいる萩軍も同じだと思った山縣は
奇兵隊100名に戦仕度をさせ、自らも得意の長槍を持ち馬に跨り
無言のまま闇夜の中、兵と共に絵堂に向かった。

萩軍は自分たちの十倍の兵がいる
しかもこの戦いに負けたら自分の命は元より諸隊の兵の命も・・・
更には長州・日本の将来も危うくなると考え
「必ず勝たねば!」と言う悲壮感にも近い覚悟の奇襲作戦であった。


この作戦は成功したが、一旦引いた萩軍は態勢を立直し
長州藩内戦は両派の激しい戦いが10日間続いた。





途中高杉晋作らも参戦し改革派は勝利。

これによって藩論が倒幕と統一され、明治維新に進むのであった。




この史実に残る大田絵堂の戦い
伊佐奇兵隊本陣から絵堂までの行軍を
150年の節目に
2015年1月11日に再現!行軍します!!


詳細は右側メニューから
まだ決まっていないことが
ありますので
それは随時アップしていきます。

申し訳ありませんがチェックお願いします。






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